昭和50年09月01日 月例祭
できるだけ苦労をせず、楽な幸せを頂きたいと言う様な考えを持っておるものが多いいです。でけるだけきつくない。出来るだけ楽な。ある時に寝てから食べられる様な方法はなかろうかというてから。寝ながらね寝てから食べらる。そしたらある人が、それはあの朝鮮の山奥に行くと、寝ながら食べられるちいうた。朝鮮の山奥にゃその、虎がおった様な事で御座いましようね。
寝とりゃちゃん食べらる。朝鮮の山奥に行けば寝とって食べられます。けども是では愈々つまりませんからね。そこでお互いが楽になりたい楽になりたいと、何時もそれこそ一生懸命働きもします。信心も致しますけれども一向楽になれない。ほんとに私しは楽になる道というのは、どう言う様な道を歩かせて頂いたらよいか。信心をしておるから楽になると言う事ではない。一生懸命に働くから楽になると言う事ではない。
頭がよいから、腕がよいからだけではない。と言う訳です。今日私し午後の奉仕をさせていただいとります時に、久留米の商工会議所の所長であります竜頭さん。それに楢橋進さんの奥さんと、そのそれについたお方と三人でお参りに なられました。ご承知でも御座いましょうけれども、竜頭進さんはでは御座いません。楢橋さん、楢橋進むさん。楢橋進さんは楢橋渡さんのご子息なんです。それは立派な方だそうですが。まだお会いした事はありませんけれども。
奥さんを見ておったら立派だろうと思いました。奥さんが立派ですやっぱりこの釣合うとりますよ夫婦っていうのは。うちの主人なうちの家内がちいうて、実際いうたらちゃんと釣合うとると。だから家の主人がと言う風に見える時にはですね。とにかく自分自身が分ってない証拠です。おやじがヒョットコに見える時には、自分がお多福さんである自覚にたたなければ吊り合いません。とにかく家内がお多福さんに見える時には、自分がヒョットコの自覚に立たなければ、釣り合言うたという幸せはありません。
吊り合わなければなんでも幸せじゃありません。財産があり過ぎても、矢張りもう心配のしぎんしとる人があります。もうほんとに沢山の財産を持っておってからです、養老院に行こうという人がありますよこの近所に。だから物があるとか金があるだけではいけない。釣合わなければいけないと言う事です。私は今日その三人の方たちにこんなお話をさせて頂いた。もう30年にもなりましょう。
私しがまだ信者時代に、北野の教会にお話にいっております時に、今日は楢橋渡さんを初め、なら北野の楢橋会の方たちが、私しの話を聞きに聞きたいといわれるから、と言われるんです。勿論私しはその時分に、北野にお話に参りますともう北野の教会にいっ ぱい人が集まっとりますしかも夜通しでした。もう朝から晩までお話をし続けて、今の中村さんなんかはその時分から、一生懸命私しの話を聞いて下さった方達なんです。秋山さんなんかもやっぱそうです。
その時分の頃です。参っとりましたら沢山な人達が、いわゆる楢橋会の人達が、楢橋っさんを中心にして、見えられました。そして、金光様を拝むまでもなく、話を聞くのでもなく、話をしにきなさったような感じでした。それから暫く、いわゆる楢橋先生のお話を頂きましたが、やっぱり随分若い時から苦労をしたかたですね。私は段々素晴らしいお話を聞かせて頂いておりましたら、神様からお知らせを頂いた。
それはもうとてつもない大きなくどで。釜でそれにとてつもない大きなは釜が懸かってるんです。なかにゃ米も洗うたばっかりの米がいっぱい入ってるん。所が一本の薪もないというのです。ですから今日はこの人達は言うならば薪を集めに来たんだなと私ゃ思うた。どんなに大きな釜戸であってもどんな大きなは釜であっても、中によし米が入っておっても薪がなかったらままになりません。薪と言う事は私しゃ真心だと思う。
楢橋っさんの人格にほんとに心から帰依する人達がです、沢山集まってああいう言うならば、怪物とまで言われた大物である、楢橋っさんを盛り立てる人達がです、自分を中心ではなくていうなら楢橋を中心にして、動く様な人たちがでけなければならない。そういう人達を集めなければならない。所が中々そういう人達ばかり集まらない。その為にはね矢張り楢橋っさん、あなた自身あなた自身の言わば人格が大事だと言う事です。その人格に皆んなが付いて来るのだ。
もうあの人の為なら命もというくらいな人達が、取り巻きに又は周囲にでけて、初めてほんとの楢橋会であろう。ほんとの言うならば楢橋っさんを、舞台に出して十二分に躍らせる事が出来るのである。と言う様な話をしたのをその楢橋っさんにあって、30年振りそんな話を思い出しましてね、あなたのお父さんを私しゃもう初めての最後でしたけれども間近にお話を頂かして貰う、そして私の信者時代のお話を聞いて頂いたんですけれども。その時に楢橋先生がいわれましたよ。
あなたのお父さんが言われました。どこどこに行った時にも、それとおんなじ様な意味の事を言われました。こりゃ心しなければならない事ですと、いうておられましたけれども、私しは心をされなかったと思うです。ですから楢橋っさんの御晩年を思うたら所がねお宅のご主人は、とにかく楽しみの多いお方です。私が御神前にその事をお届けさして頂ましたらしゅうかいどうの花が、蕾んでいっぱいついておる所を頂いた。秋海栄って花がありますね桜の花によく似た。
ですからこれが一つ一つ咲いて行くと言う事、満開にでもなると云う頃には、もう実に素晴らしい事でしょう。私しはまあだお目にかかった事はないけれども、素晴らしい華のある人。素晴らしいしかもまだ蕾であると言う事。人間は華がなからなければいけません。華のある人にならなければ。歌舞伎役者でもこれは役者の特別用語ですよね。華のある役者とこう申します。どんなに上手であっても華の無い役者は雰囲気が出ません。その楢橋進さんという方は、言わば華のある方。
しかもまだみんなが蕾である。もう必ずおかげを受けるというか、広がるというか成功すると云う事においては間違いがないと私しゃ思わせて頂くがね。唯言うならば事が成就したとか成功したと言うだけでは、人間は幸せになりません。どんなに広がりにひろごっても、肝心かなめの所が間違うておったら、そりゃお役に立ちません。例えばそれを一つの白扇に例えるならば扇というのは、言わばあれは末広という。
広ごりに広ごって行くというお知らせの時に、言わば扇子を頂きますけれども、その扇子の肝心かなめの、金具の所がゆるかったり、とれておったりしたんでは、広がっても物の役には立たないと言う事になるのですから、もうこりゃ今お若い時にまだ華のある時に蕾の時に。ここの肝心要の所を一つしっかり頂いて、おいでられなければいけませんというて、まあお話を致しました事でした。楽になりたい成功をしたい。そして楽にはなったけれども幸せではない。楽と幸せは違うのです。
金のあるから楽の様であっても、健康であるから楽の様であっても、健康だけやら例えば、お金が沢山あると言う事だけでは楽ではないと言う事。
問題は肝心かなめの所が、大事になされていかなければ、ほんとの幸せには継ながらないと云う事で御座います。そこでお互いこうして信心をさせて頂くので御座いますから、その、肝心かなめな所を愈々、大事にして行く事の精進が、言わば御道の信心であると思います。今日午後から北野の上野先生の姪にあたりますね、ここで楽人あの笛の御用を頂いとりますお父さんが。姉さんはここでいわゆる上野先生。おばさんにあたる訳です。夏休み中熱心に参って来ました自転車で。
それで昨日今日が最後、明日から学校ですからというて、おりましたら、今日又午後から参って来たんです。毎日御理解を頂かせて頂く事を修行と思うて参りましたがやっぱりもう、今日一日頂かないと、なにか勉強が手に着かない様な気がするで。きょは御理解を頂にきました。中学二年でしょうか三年でしょうか。大きい身体してますけど。それで私しが申しました。そうだなあ矢張り此の、肉体には食べ物という糧を与えなければ、出来ない様に、心にもね糧を矢張りあてなければ、心の成長は望まれない。
それに気が付いただけでも孝子しゃんといいますか、孝子さんとても幸せだよ。あんた達の若さで心に糧を与えると言う事が、有難くなり楽しみになり一日でもその糧を頂かなかったら淋しいと言うぐらいに。一日ご飯を頂かなかったらひもじい様に実感として感じれれる様になったら、もう孝子さんの一生の幸せはもう、決まった様なもんだよというて話した事でした。心が豊かになる。心が清まる。そういう例えば心の成長。心が大きく豊かになって行く。
美しゅうなって行くと言う事が、楽しみの信心にならなければならないというのです。もう御道の信心はこれに極まってるんですから。おかげは和賀心にあると言われるけれども、その和賀心はどこから生まれてくるかというと、信心は本心の玉を磨くものぞや。信心とは日々の改まりが第一ぞと仰せられます様に、改まった上にも改まり磨いた上にも磨いて行くという生き方の中から生まれてくる心が和賀心。言うなら我ながら自分の心が拝みたい様になるその心が和賀心なんだ。
その和賀心におかげがあるというのですから、これは金光様のご信心の言わば独壇場でありましょう。どんなに豊かな人でも心の大きな人でも、言うならば信心しておかげを受けると言う事は、人がよいのと悪いのとは違うと仰る。あげな奴が金光様、金光様というて参りよる、と、言われる様な人も中にゃあるのです。けれどもおかげを受けるから、矢張り参って来るんです。
かというてあの人は仏様の様な人じゃ、神様の様な人じゃというても、矢張り一生うだつがあがらずにです、言うなら貧乏なら貧乏のしい続けで、終わって行くという人もある。ですから、御道の信心。教祖金光大神が天地金乃神様から、おかげを受けられた話を、私し共が頂いて、それを行ずると言う所におかげがあり、徳が頂け力が頂ける訳であります。昨日の朝の御理解の中に、昨日私し朝の御祈念に、御神前に出らして頂ましたら、おんなの方がね、綺麗にお化粧をしておられるとこを頂いた。
しかも髪を綺麗に結い上げて、最後には櫛をさし、そしてかんざしをさして鏡の中の自分に見とれとるような姿を頂いた。そりゃ女の方でも男の方でもやっぱりおんなじですよね。矢張り身だしなみ。美しゅうすると言う事はよい事。自分だけじゃあない。自他ともに気分がよい。だからその女の方達が特に、そんなら身化粧をなさったり、髪形を改められたり、すると言う事がです。ほんにまあおなごに生まれたけんで、毎日お化粧せんならんというて、困っとる人あろうかと私しゃ思うんです。
ほんにおなごてんなんてん生まれたけん毎日頭ば結わにゃならん。もうせからしかけんで坊主になろうかち言うごたる人も、あんまりないですもんね。やっぱり綺麗にとき流したり、油を付けたり香水を付けたり。磨いた上にも磨いて、下化粧をして、矢張り綺麗に。それこそもう、鏡の中をこうやって見ながら、あら自分のこれに見とれちゃっとじゃん。とこう思うですよね。ですからね信心もね、矢張りそれが願目じゃなからなければいけないと云う事です。信心の願目限りなく美しゅうなって行く。
まあ言うならば限りなく有難うなって行く事の、楽しみなのですですから様々な事がある。問題もあるけれどもその問題その物が、楽しゅうなって来るんです。それはもう今日でしたかね、もうそりゃ大変難儀な問題で参って来た方に、まあ話した事でしたけれどもね。ああそうだそうだ。あのここの吉井の材木屋さんの、自動車の運転手さんが毎日参ってくるんです。丁度あの梅山さん。日田の梅山さんのお嬢さんの婿さん。娘婿さんの所に勤めておる方なんです。その方がもう先月だったでしょうかね。
あの長崎の方かあちらの方へいって帰りに、居眠り運転でねその事故をおこした二人が亡くなられた。何人か怪我した。居眠り運転ですから、急にそのハンドルをとられた時に、こちら側の自転車屋さんに飛び込んだ。新しい自転車がずらり並べてある所に、はぁっと云う様な大きなそれこそノイローゼにならんばかりに、それこそ頭が塞込んでおられるのを、ご主人の梅山さんの、娘婿にあたられる方が、毎日その方の為に一生懸命お参りをされました。
そして進められてここ一ヶ月あまり参って来る。もう表情が変わりました。そして事がもうそういう大変な問題がです、とにかくこうひとつ片ついていくんです。もうこりゃほんとに驚くばかりに片付いていくんです。それでもね矢張りその、そういう家に行く時には折角そんなら、はぁようおいでなさったとは言やしませんよ。顔ばみるとほんにこの人が家の息子を殺した。家の主人を殺したのはこの人だと言う風に、みられるのがもうとにかく、穴でもあれば入りたい様にやっぱり思われるんです。
まあだ若い25歳です。そういう大変な事故を起こさして頂いたのですから、今日もその先方にいかなければならない。又色々ともうほんとにそれこそ身の縮む思いをする事であろうけれども、先生どう言う様な気持ちで、先方にやらせて頂いたらならよいか。こっちも貰泣きしようごたる。どげな気持ちで行ったらよかろうか。そりゃねそんならあんたが向うに行く時にね、しれしれ笑うて言っちゃやっぱいかん。ほんとにねそりゃ愛嬌ようこうやっていくならよけい向うは腹立てなさる。
それでやっぱり自分の心をそのままにね、それこそやっぱ悲痛な思いで、ほんとにすいませんすいませんという思いで。又どう言う事を言われてもね、例えば今日はひと修行させて頂くと思うて。それこそ水火の行もいとわんというて、まあお道でここではしませんけれども、それこそ信心を分らせて頂く為には火の行水の行ですら、する人達があるくらいですから、今日はその火の中んでも飛び込んで行くごたる気持ちで、行ってご覧なさい。どう言う事にあっても、どう言う風に言われても。
それこそどうもすいませんというとるけれども、心のそこにはね結構な修行させて頂いてと、まぁ心ん中ではにこっと笑われる様なものですら、頂ける様になるよという。そんなら先生そげん思うて行きゃよいですね。そう私しもお願いしとくからその積りで行きなさいち言うた。そう言う様な大変な例え問題に直面致しましてもで、もう恐らくもしここに御神縁を頂けなかったら、もう一生がもう私しゃもう、めちゃめちゃになったのではなかろうかと思うです。
おかげでです丁度梅山さん達が、こちらに御神縁を頂かれて、まぁ二十日か一ヶ月位の時分じゃなかったでしょうか。そこでその娘婿のとこのその難儀な問題を、お取次ぎを頂いて娘婿のお導きも出来た。毎日熱心に参って来ます。最近ではもう工場製材をなさっておられますから、もうそれこそ金銭のお繰り合わせの事から、もう万事にお繰り合わせを願われる。そしてその半ばからでしたけれども。当の本人をもうそれこそ意気消沈して、もうノイローゼにならん寸前の様な姿の。
その彼を連れてお参りをして来る様になった。お話を頂くそしてその都度々にです、どういう心掛けで先方にやらして頂いたならよかろうかという所まで、信心が段々解って来た。ほんとにそれは、亡くなった御霊様達には申し訳がないのですけれども、その御霊様達も、安心の御霊としておかげを頂かれる事の為に、あんたがどうでも力を受けなきゃ。信心の力を受けてほんとに、ああ言う様な目の前が真っ暗ろうなる様な事が起こったおかげで、合楽に御神縁を頂いた。
そしてこんにちはこう言う様に、おかげを受けておると言う様な、おかげを一つ頂かなければいけない。そう言う例えば難儀の中にありましてもで、その難儀を言わば至上と頂く道なのです信心とは。言うならばその難儀を通してその困った事を通して、愈々改まりに改まり、磨きに磨かさせて頂くというおかげを頂いて行くと言う事なんです。言うならばその都度に自分自身が綺麗なって行く。魂が清まって行く。心ん中に喜びが大きくなって行く。心が豊かに大きゅうなって行くと云う事が自分で解る。
それが有難いのでありそれが 楽しいのである。信心は見やすいものじゃが氏子から難しゅうすると仰せられますけれども、私し共が信心はです。難しいおかげを受けなければならん為にお参りをするなら難しい。朝参りも中々でけんとても改まるてん清まるてんちゃ尚でけん。おかげさえ頂けばよいという信心からです。私し共は信心とは結局、私し自身が愈々清まらして頂く事であり、豊かに大きくならして頂く事であるという、言わば焦点を。言うなら女の人達が化粧、髪形を綺麗にして行く事が楽しい様に。
自分の心を愈々曲がった所はまっすぐに、汚れておる所は垢を落として、磨いて行く事にです、努める事が有難い楽しいと、それこそ心の鏡に映る自分自身がです、それこそ拝みたい様な心にならせて頂く稽古なんです。そりゃおかげを頂くと言う事は色々あります。おかげを頂くコツというなら、それはもう色々ありましょう。だからそういう信心がいけないのじゃないですけども。今日もある方がまあとにかく、おかげを受けなきゃならん。そしたらねあの鷲、わしって言う鳥がおりましょう。
鷲がこんな止まり木に止まって、羽をばたばた上にこうやって、あげて上に飛び上がろうとしておるんです。所がこん止まり木だけはぐすとこう掴めとる。是では上には飛んでいけません。がと言う事は鷲というのは、わしがという我でしょう。我を取り払うと云う事にもです、又は是に止まっておるこれ。握っとるもんな離さんとというごたる生き方では助かりません。是を離さなければです、矢張り上に飛び上がる事が、舞い上がる事がでけない様にです、是はおかげを頂いて行くコツです。
だから我の願いではなかろうか。グスと握ってばっかりおるのではなかろうか。そういう所をです、よく自分の心の中に検討してまいります。だが是とてもです、限りなく美しゅうなり、限りなく清め改まらして頂くと云う事を焦点に致して参りますと、それは自ずと有難くでける様になるです。我情我欲を放れて真の道を、解らして貰う所に我が身が神徳の中に生かされてある実感が湧いて参ります。自分がああしたい。あれが欲しい惟が欲しいという、その思いを捨てます時にです。
それこそ与えられる事その事が、有難いと言う事になって来るんです。今日は私し皆さんに楢橋っさんに聞いて頂きましたように、もう言うならば殆どやんがて30年も前に、お父さんの楢橋渡さんに聞いて頂いた、それをほんとに楢橋渡さんが私しの言う事を聞いて言うならば、まきを集められたならばもっと素晴らしい、大政治家が産まれておっただろうと思うですね。こりゃあもうほんとに矢張り大政治家という感じです。
それで今日はお宅のご主人にはね、大政治家というよりも偉大な政治家を目指しなさいと私しが。偉大と大とは違うのだ。それには肝心要の所を大事にする。宗教とはその肝心要の所を、教えるのが宗教ですというてお話を致しました。皆さんもです矢張り末広のおかげを頂きたい。それこそ愈々晩年になればなる程有難いという生活に入っていきたい。それならね、矢張り私し共が肝心要の所を踏んまえての、信心生活信心の稽古をさして頂かなければで、いわゆる楽にはなれません。
ほんとに楽になると言う事はです、極楽と言う事であります。極楽の境地に言わば遊ばして貰う。極楽の境地に浸らして貰う。そしてその極楽の境地を又人にも伝えて行く。自分の周辺に広げて行く。それが合楽です言うならば、神様の願いに答え奉れれる程しの、信心をさして頂たい。そん為には先ずお役に立つ私にならせて貰う。神様の御用に使うて下さい、使うて下さいというても、そんなら私しが水が欲しいと言うとに、お水を持って来て下さる方が。もう破れ服のぼろぼろんごたると着てから。
手はこう汚れて御座る。顔はこうして御座るちゅう人が、こう持って来たっちゃあんまり嬉しゅうないですよね。それこそさっきの話じゃなおけど、綺麗にした人がこうやって持って来てくれた方が美味しかごたる。又御用に使われるというなら、そういう人しか神様は使われん。本気で清まろう本気で改まろうというそういう、姿勢を示しておる人が御用に使われる。御用に使われるおかげを頂いて、こちらの事は氏子の用は神様が、神の用をたせば氏子の用は神がたしてやると仰せられるのですから。
神様からさして貰う。神様から下さるおかげこそ、それは夢にも思わなかった。想像だにし得なかったおかげの展開となって来る訳で御座います。それには先ずひとつ願目を間違えんで。それこそ髪を結うた化粧をした。その上にアクセサリーである所の、かんざしなり、櫛をささして頂くと言う事はです、私しゃ極楽に行った人達が、合楽を目指した時の姿ではないかと言う風に、昨日から思わして頂いておるので御座います。
どうぞ。